『クマの名前は日曜日』
アクセル・ハッケ、ミヒャエル・ゾーヴァ、丘沢静也訳
『クマの名前は日曜日』
個人的お気に入り度:★★★
- アクセル ハッケ, Axel Hacke, Michael Sowa, 丘沢 静也, ミヒャエル ゾーヴァ
- クマの名前は日曜日
「わたし」 が小さかったころの話。(「わたし」の名前は作者と同じ)
ある日曜日、目を覚ますとそばに寝ていた、
「ぴっかぴかの一年生みたいな 」 クマのぬいぐるみ。
ぼくは彼に「日曜日」 と名前をつけ、以来
自転車やブランコに乗るのも、食事もトイレも、
とにかくいつも一緒にすごす。
寝るときには抱き寄せて毛をなで、
「日曜日」の存在をたしかめてから眠りにつくのだった。
しかしある朝、クマはキスもしてこないし、
いつもじっとしていて、食事をあげても食べるのを見たことがない、
本当にぼくのことを好きなのかな?と疑問に思ったぼくは、
日曜日をゆすったり踏んづけたり、
ミルクとはちみつを口に入れてあげようとしたりする。
お母さんははちみつで汚れたぬいぐるみを洗濯機で洗い、
洗濯バサミで物干しに吊るす。
その晩ぼくは、「日曜日」という名の子グマのお父さんが、
クマの経営するおもちゃ屋に住まう、人間のぬいぐるみであるぼくを
買いに来る夢をみるのだった。
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いつも一緒に過ごしていたクマのぬいぐるみ。
自分は目一杯愛情を表現している(つもりだ)が、
ぬいぐるみは目立った行動をしない。
果たして自分のことを、ぬいぐるみはどう思っているのだろう?
モノなのに、生きものをかたどっているがゆえに
ふつうはやさしく取り扱うことが期待され、
抱きしめたり、座らせたり、
家族や友人のように共に時を過ごすぬいぐるみ。
そうやって何のうたがいもなく暮らしていて、
ある日、ふと疑問を抱く。
このぬいぐるみは、生きているのか、いないのか。
何かを考えるのか、考えないのか。
ぬいぐるみに愛はあるのか。
そんな瞬間を切り取って見せたお話かもしれない。
私自身は、
小さい頃はそんなにはぬいぐるみに執着した記憶はないし、
反対に乱暴に扱った覚えも、覚えていないだけかもしれないが、
あまりない。
ぬいぐるみを主人公としたお話
(人間になりたい、ボロボロになって捨てられた、愛されたいなど)
には自分の心の葛藤の延長として共感できるようになったが
(こういうお話は本当は人間についてのテーマだからかもしれない)、
ぬいぐるみを乱暴に扱う心理のほうはあまり深く考えず、
乱暴にしても痛くない布製のおもちゃの一種と考えているのかな、
と思う程度だったが、
もしかしたらこの本の主人公のように、
ぬいぐるみと自分の関係をたしかめている瞬間があるのかもしれない。
ぬいぐるみを噛んだり放り投げたり踏んづけたりする子に、
ぬいぐるみが痛がっているよと言ったら、
その子は次第に思いやりを覚えていくのだろうと思われるが、
もしかすると自分で発見しようとしていた何かを
それと引き換えに手放してしまうこともあるのかもしれない。
そんなことをふと考えた。